那珂湊戦争紛争地図 
 
 

 江戸時代の那珂湊周辺の地図を再現

 最古の近代的測量方で製作された明治18年の那珂湊の地図は範囲が狭いので
 昭和29年の那珂湊周辺の地図を合成して那珂湊戦争時の地図を再現しました。
 その地図に那珂湊戦争での紛争地の位置関係が把握出来る様に書き込んでみました。
    註)  和尚塚周辺は昭和42年頃から始まった土地改良事業により道路は大幅に変更されて現在では昔の面影を全く留めて居ない。
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 上の地図を見れば那珂湊戦争の紛争地は那珂湊の3つの大門へ続く街道付近で起きて居た事がわかる。
 天然の要害の地の那珂湊へ陸路で続く街道での熾烈な攻防戦が繰り広げられていたのです。

那珂湊戦争紛争地の現状
 殆どの場所で当時を偲ばせる物は失われてしまって居ます。
 何箇所か現在の状況をお知らせします。
 部田野原
部田野原 左の丘は部田野村、右の丘は小谷金で那珂湊戦争の絵図の場所かも知れない。
 
平磯ヶ原
平磯ヶ原 道路の伸びる先に二つの雲雀台とその先に烏が台の一本松が有る。
人家の並びの左手の草の生えた土砂山が現代の雲雀台と勝手に呼んでいる。本物と場所はほぼ同じ所と思われる。
画像左の端のビルの先に宇都宮藩の布陣した原の三叉路があり、
右手に鯉渕勢の陣営地があった。
 
峯山

峯山 個人所有地のため大部分が切り崩されて交差点角の一角しか残っていない。
 
平磯 双葉薬局土蔵
天狗党が立て籠もったと伝えられる元の聴法寺近くに有った双葉薬局の土蔵。
撮影当時銀色のビニールシートに覆われなんとか形を保っていたが3.11東日本大震災で大きく損傷を受けた模様。
この場所が当時の平磯村の中心地であった。
 
旧聴法寺跡

平磯の地形は海岸段丘で背後に20メートルほどの垂直な崖を背負ているが江戸時代には崖は2段になっていて、ここに神社や寺院等が集中的に建っていた。
2段目の崖は現在は殆ど削り取られて残っていないが、旧聴法寺跡だけは辛うじて当時の面影を保っている。

現在の聴法寺は丘の上に移転して広大な墓地を構えているが、この墓地も昭和に成ってからこの場所へ集められた物で、那珂湊戦争の時の激しい戦場だった場所だ。
 
雲雀台の石碑
雲雀台跡に建てられた石碑だが現在では干し芋工場の敷地の片隅に追いやられている。
パレットの陰に成り背面の碑文の撮影も難しい状態だった。
左上の画像は古の雲雀台だが右上の画像はほぼ同じ場所と思われる所に出現した土砂山だ。
左のに写る背負籠の大きさから塚の大きさはほぼ同じではないかと推測している。
注意点は雲雀台は2箇所造くられていた。

六軒家の辻

六軒家の辻に隣接した墓地に有る無縁供養碑
天狗党の乱の激戦地には無縁供養塔をよく目にする。
交叉点角の樹木の有る家は那珂湊張子で知られた飯田家
その隣に稲荷神社が有り近年まで鬱蒼とした鎮守の杜が有ったので、ここに伏兵が潜んでいたと思われる。
 
那珂湊市内に残る天狗党関係の石碑
和尚塚の石碑
 
烏が台の墓地内に有る鯉渕勢布陣の跡
館山の墓地内にある校倉藩士の慰霊碑
館山に幕府軍の戦没者の墓がいくつか有るが、何故かこの石碑は水難事故の慰霊碑の裏に放置されている

 
       
       
  
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