阿多可奈湖/アタカナノミナト 1200年前は那珂湊は入り江の底だった
 
 

 当サイトに「那珂湊古地図」等と検索して辿り付く方が多数居られます。
 天狗党に関して調べておられる方々と推察して当方が得ている江戸時代の那珂湊の地形や古地図など
 天狗党に絡めた情報を提供いたします。
 

 タイトルバックの地図は私がカシミール3Dで製作した約1200年前の那珂湊地方の様子を表しています。
 古事記・日本書紀の時代には現代より海水面が上昇しており那珂川河口や涸沼は入り江に成っていて、
 阿多可奈湖<アタカナノミナト>と呼ばれていました。
 当時は大貫に海水が浸入して大洗が島に成っていたという記述から大洗が島に成るまで海水面を上昇させたところ
 4メートル上昇させると大洗が島として孤立しました。
 更に縄文時代には水戸の千波湖が海に繋がっていたという事から、海水面を上昇させると7メートルで海と繋がった。
 このような事から、那珂湊は海底に没していた時期が永く続いていた事を知ることが出来る。
                                   旧河川痕地図   上の画像をクリックすると大きな画像でご覧に成れます
 やがて海水面の後退に伴い那珂川は水戸とひたちなかの台地の間を複雑に蛇行して旧河川痕には
 に所々に深い湿地を数多く残していった。
 江戸時代に入っても湿地の痕跡は那珂湊の市中にも深く食い込んでいた。
上の画像をクリックすると大きな画像でご覧に成れます
 上の地図は国土地理院の発表している明治時代後期の那珂湊付近の湿地帯を表したものです。
 横線で示した地域は旧河道痕で深い湿地帯に成っていた。
 
 この地図を解説すると、那珂川の普段の水位は陸地から大幅に低くくて容易には水をくみ上げることが出来ず
 鶯色の地域は那珂川に隣接していても水田として利用する事は出来なかった。
 
 厄介な事に鶯色の地域は那珂川沿いの周辺的地より高く、那珂川から離れた旧河道痕の排水の妨げと成り
 昭和期まで那珂湊には深い湿地帯が残されていたのです。
上の画像をクリックすると大きな画像でご覧に成れます
 那珂湊の湿地の痕跡は大正4年の地図に池として記載されており、反射炉付近から那珂湊駅周辺に存在していて、
 那珂湊駅近くの池は「停車場の池」と呼ばれ、現在の反射炉の駐車場周辺は「酒池」を埋め立てた場所だった。

 友人の父上に聴いた話だがその方は釈迦町に昭和初期に生まれ生家は那珂湊駅近くの池に隣接していて、
 家は池の上に突き出した構造で床の下に水面が有ったそうだ。
 これらの池は昭和30年頃に埋め立てられたと言う。

 また大正生まれの私の父に那珂湊駅が出来た頃の周辺の地形を聞いた事が有る。
 相金から那珂湊駅付近まで人の背丈が埋もれてしまうほどの深い田んぼが広がり、
 その中に島のような水に沈まない場所が点在していて「島巡り」という地名に無ったという。
 
那珂湊の大門
 江戸時代は庶民の自由な移動は許されず町内へ通じる街道には大門が設置されて夜間には閉じられた。
 江戸時代の那珂湊を語るには大門の位置を知る事も大事に成る。
 何故か昭和29年の地図に那珂湊の大門の位置が記載されていた。
 大門は地図の左から・・

  その1 水戸街道 <釈迦町、反射炉駐車場付近のカーブ
  その2 大部坂(タイコ坂)   <泉町から八幡ノ上へ続く坂道の麓、ひたちなか海浜鉄道踏み切り付近
  その3 富士見坂 <橿原神社脇、平磯へと続く坂道の途中
 
江戸時代の那珂湊の地形図
上の画像をクリックすると大きな画像でご覧に成れます
 上の地図は私が前出の湿地の地図に明治18年測量の地図の那珂湊の街並みを重ねたものだ。
 ここに3つの大門の位置を重ねれば江戸時代末期の那珂湊の地形や街並みがうかがい知れる。

 当時の那珂湊は東には太平洋を望み、南から西に掛けて那珂川が流れ北西には深い湿地や中丸川が取り囲み
 那珂湊へ出入りできる街道は3箇所に限られる天然の要害の地であった。
 ここに天狗党が立て篭もったのは当然の事であり、那珂湊を取り囲んだ1万の幕府軍が
 柳沢やドンドン山<願入寺>から大砲を撃ち込むしか手立てが無かった事が理解出来るだろう。
 
 
よいだろう。
     
     
  
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