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:原始阿字ヶ浦 上記の絵葉書は明治末から大正初期の物で原始阿字ヶ浦(当時は前渡村前浜)と言える一枚です。 カメラの解像度が低いせいもありますが、海岸近くに全く人家が見えません。 (上の画像をクリックすると海岸線部分が大きなサイズでご覧になれます) この何も無かった海岸が1928年(昭和3年)に湊鉄道(のちの茨城交通湊線→現・ひたちなか海浜鉄道)の延伸により 観光開発が進み、一大リゾート地へと変貌するのです。 湊鉄道延伸後の阿字ヶ浦 前浜テント村の全景 (上の画像をクリックすると大きなサイズでご覧になれます)
黒沢忠次翁を現在に伝えるモニュメントは海岸に立つ銅像のほかにもある。 湊鉄道か阿字ヶ浦まで延伸された昭和3年は昭和天皇が即位された御大典の年でもあり 阿字ヶ浦駅近くの堀出神社の社名碑の裏側に御大典紀念・黒沢忠次と誇らしげに刻ざまれ 側面には湊鉄道阿字ヶ浦延伸紀念と刻まれている。 管理人が撮影した時にはコンクリート製の社名碑は風雨に打たれて文字が読み難くなっていた上に 晴天で日陰の陰影を映し出すのがとても難しいシチュエーションで有った為に 画像を白黒にして高コントラストに調整してなんとか判読できる状態にしてあります。 再度の撮影の機会を伺っていたのですが残念ながら東日本大震災の折に 堀出神社の社名碑は倒壊してしまい、再度の機会は永遠に失われてしまいました。 やがて質素な藁葺き屋根の間に多層造りの海水浴旅館が見られるようになり 波打ち際には今風の海の家が所狭しと立ち並んだ。 阿字ヶ浦海岸のパノラマ (上の画像をクリックすると大きなサイズでご覧になれます) 東洋のナポリ 今はもう耳にする機会がなくなっているが阿字ヶ浦には「東洋のナポリ」というキャッチフレースがあった。 私が学生時代に東京に住んでいた頃、新宿駅アルプス広場で、「東洋のナポリ・阿字ヶ浦」という幟を見かけ よくよく覗いてみたら阿字ヶ浦の観光キャンペーンであった。 若いキャンペーンガールが居る訳でもなく、今流行のゆるキャラなんて当然居るはずも無く 只只、地元のオバちゃん達が通行人を引っ掛けて茨城弁を捲くし立てていただけだった。 私も運悪くそのオバちゃんと視線が合ってしまい、暫くの間懐かしい茨城弁を堪能することになった。 1970年頃の阿字ヶ浦海岸 (上の画像をクリックすると大きなサイズでご覧になれます) 海岸に聳える崖を「屏風岩」といい、阿字ヶ浦と磯崎の海岸の境にある岩礁地帯を「鬼隠れ岩」と言った。 何故、酒列磯前神社の近辺にある岩礁に「鬼」という文字を使うのか管理人は考えました。 岡山県総社市の鬼城山(きのじょうざん )には温羅と呼ばれる鬼が住んでいたという伝承が残っているが ここでの鬼とは大和朝廷に敵対していた者達なのではないのかと推測できます。 ならば、阿字ヶ浦の「鬼隠し岩」の鬼も大和朝廷に敵対していた勢力のことではないのか・・・ 神話には朝廷に従わなかった天津甕星(あまつみかぼし)こと星神香香背男(ほしのかがせお)が 日立の大甕に居たと伝えているのですから強ち絵空事では無いと思われます。 このあたりの件は後々「ヤンサマチ」のカテゴリーで説明します。 また、管理人が子供の聞いた話では 阿字ヶ浦の海岸に沿って、北から南へ強い流れがあり 鬼隠れ岩付近で離岸流となって沖へと流されるという。 この離岸流は相当に強力な流れであったので幾人もの犠牲者が出たといわれています。 この強い離岸流を鬼に例えて「鬼隠れ岩」と呼び、人々に危険箇所だと知らせていたのかもしれません。 しかし、残念ながら肝心の「鬼隠れ岩」は磯崎漁港の拡張整備工事の為にその姿を永遠に隠してしまいました。 阿字ヶ浦の最盛期と衰退 1980年頃に阿字ヶ浦への海水浴客は最盛期を向かえ年間350万人もの利用者が居ましたが レジャーの多様化や常陸那珂港の工事により海流が変化して砂浜は波の浸食を受け 年間を通して見られていたサーファーも激減して2005年には年間70万人へと減ってしまいました。 その最盛期のさなかの1982年頃に管理人が撮影したのが下記の2枚の写真です。 阿字ヶ浦駅後方の風景ですが、まるで湊鉄道延伸直後かと思えてしまう。 松の下を潜り右手の奥に進めば海岸へ降りる坂道になっています。
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上の写真はひたちなか市のホームページから頂いたものです。 駅から続く暗闇坂を下りると写真右手の道路に続いていました。 マッチ箱のような建物がバンガローで、この頃には田んぼは埋め立てられて駐車場になっています。 釣堀はバンガローの左手に造られていました。 阿字ヶ浦の観光地への説明はここまでとして 次のページより磯崎と阿字ヶ浦に有った旅館のお話です。 |
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