な~んにも無い平磯に遺産なんて何処にあるの? 貴方は今、ふるさとに住んでいますか?
そのふるさとは昔の姿を留めているでしょうか?
私のふるさとは今では何の変哲もない詰まらない姿をしています。
でも本当のふるさとの姿はこんなものではないと思い立ち、
ふるさとの真の姿を探求してホームページを造ってみました。
 調べてみて気づいたことは、自分のふるさとはすばらしい歴史を持った町だったと言うことです。

 アイヌ語の由来を持つであろう地名、1千年の昔の八幡太郎義家の伝説。
 鹿島神宮の灯明料を担っていた地域であること。
 ほんの100年前までは関東有数の潮湯治の場所として二十数件の海水浴旅館が立ち並んでいたこと。
 明治43年3月12日に、平磯沖で発生した大海難事故で
 犠牲者供養のため、十九代横綱「常陸山谷右衛門」が遺族の為に相撲の興行を行なって浄財を集めたこと。
 明治維新の魁となった天狗党<元治元年の乱>で藤田小四郎らが立て篭もり、幕府軍およそ1万人の軍勢との争いの中で平磯の町中が灰燼に喫した事。
 血盟団事件で三井財閥の団琢磨、元大蔵大臣の井上準之助を殺害した小沼正の出身地でもある。
 そのためか茨城県、延いては平磯、大洗は「右翼の聖地」と称され日本船舶振興会から多額の援助を受けた施設もある。

 水戸出身の芸術家、中村彝(なかむらつね)が養生の為に水戸の煙草業者の広瀬惣八の別荘に滞在した折に描いた「平磯海岸」は中村彝の名作のひとつである。
 平磯随一の名勝地「高磯」、水戸出身の作家「菊池幽芳」は明治36年に平磯海岸を描写した名作『乳姉妹』を発表し高磯海岸も登場する。大映ドラマ「乳姉妹」の元となった小説である

 隣接する殿山(東塚原)には攘夷強硬派の水戸藩主徳川斉昭公(烈公)の命により
 和田と並んで旭が丘の砲台(台場)が建設された黒船(外国船)を牽制していた。

 江戸時代、湊村(那珂湊・中湊・常陸湊・水戸湊)に立ち寄る廻船により、商人は大いに潤い水戸藩の財政を支え蝦夷地探検の折には帆船を造り那珂湊港より出向させたのだ。其の当時の湊村の繁栄は水戸城下を軽く凌いでいたと言う。そして水戸城下の胃袋を支えていたのが、藩内水揚げ一位の平磯村であった。

 海岸線の優美さは水戸藩内随一とされ、観涛所が水戸藩主徳川斉昭公(烈公)により制定され「水戸八景」の番外の九景目となった。そのすぐ沖合いには親鸞聖人が祈祷をしたと言う伝説の残る護摩壇岩が有る。しかし神道と仏教の融合を嫌った徳川光圀(水戸黄門)の命により清浄石と改名させられた。護摩壇岩の呼び名は他にも「阿字石」、「はこ磯」などと呼ばれたこともあった。

 また那珂地方の村々が集って行なった草競馬祭り「ヤンサマチ」では酒列磯前神社の鎮座する平磯は、祭りの主要な位置を勤めた。

 現在は「茨城県ひたちなか市平磯町」と称されるが旧那珂湊市と昭和29年に合併するまでは1つの独立行政区であり、磯崎地区と合わせて平磯町であった。町役場は現在の「平磯学習センター」のところに在り、江戸時代には「札場」があった。ここは「高札」が立てられた場所であり、水戸藩内でも数箇所の限られた場所でしか高札は立てられなかった。湊町と合併して「那珂湊市」となった後には「青年の家」が建てられ、公民館的な利用のされ方をした。

 近年になってはテレビ撮影などのロケ地となり、今はやりの「フィルム・コミッション」さきがけとなった。
 主な作品は森田健作主演「おれは男だ」や、中村雅俊の出世作「俺たちの旅」などがある。
 成功した作品ばかりではなく途中放映打ち切りとなった「俺たちのオーレ」も平磯や磯崎での撮影だった。
 不思議なことに3作品共に「俺」がキーワードになっているのは単なる偶然なのだろうか・・・・・

 まだまだ色んな平磯に関する「薀蓄(うんちく)」を語ってゆくので愉しみにしていてほしい。
 
な~んにも無い平磯に遺産なんて何処にあるの?

旅館 (磯崎・阿字ヶ浦偏その1) 
まずは如何にして阿字ヶ浦は阿字ヶ浦になったのか?


:原始阿字ヶ浦


 上記の絵葉書は明治末から大正初期の物で原始阿字ヶ浦(当時は前渡村前浜)と言える一枚です。
 カメラの解像度が低いせいもありますが、海岸近くに全く人家が見えません。
 


 (上の画像をクリックすると海岸線部分が大きなサイズでご覧になれます)
 
 この何も無かった海岸が1928年(昭和3年)に湊鉄道(のちの茨城交通湊線→現・ひたちなか海浜鉄道)の延伸により
 観光開発が進み、一大リゾート地へと変貌するのです。
 


 湊鉄道延伸後の阿字ヶ浦


 前浜テント村の全景
 (上の画像をクリックすると大きなサイズでご覧になれます) 

 
 延伸直後は前浜テント村と呼ばれた簡易な海の家が
 海岸線を埋め尽くした。

 鉄道の延伸のみでは海水浴客を呼び込むことは出来ないので、
 湊鉄道の延伸に尽力した前渡村村会議員の黒沢忠次翁は
 朝日新聞とタイアップして前浜テント村を売り込むことにした。
 その際に前浜テント村という名称では
 海水浴客を呼び込めないとして新たなる名称を考えた。

 茨城には「七つの浦」があるとして
 最も近辺にあった「阿字ヶ浦」という名称を使うことにしたのである。
 茨城の七つ浦
 ●玉浦 (ヤマトタケル東征に由来するが場所は特定されていない)
 ●五浦 (北茨城市)
 ●阿漕ケ浦 (東海村村松にあり現在でも原子力施設に冷却水を提供している)
 ●阿字ヶ浦 (清浄石のある海岸を指し無線下から平磯中学校下付近)
 ●広浦 (涸沼の古称)
 ●北浦
 ●霞ヶ浦

 湊鉄道の前浜に出来た駅は「阿字ヶ浦駅」と命名され
 朝日新聞の広告効果も共なって阿字ヶ浦は見事な観光地となった。
 昭和29年に那珂湊町と平磯町が合併して那珂湊市になる際には
 前浜は前渡村から離れ那珂湊市に統合される事を選択した。
 この際に前浜は正式名称として阿字ヶ浦町と改名したのである。

 ちなみに、黒沢忠次翁は朝日新聞に感謝の意を込めて
 阿字ヶ浦、磯崎、平磯地区の朝日新聞の専売所を引き受けた。
 この専売所は黒沢忠次翁の亡くなった後も 2010年頃まで
 子息によって引き継がれた。
阿字ヶ浦宮ノ脇に立つ黒沢忠次翁像
 
 
堀出神社社名碑正面 裏面・御大典紀念 側面・湊鉄道阿字ヶ浦延伸紀念

 黒沢忠次翁を現在に伝えるモニュメントは海岸に立つ銅像のほかにもある。
 湊鉄道か阿字ヶ浦まで延伸された昭和3年は昭和天皇が即位された御大典の年でもあり
 阿字ヶ浦駅近くの堀出神社の社名碑の裏側に御大典紀念・黒沢忠次と誇らしげに刻ざまれ
 側面には湊鉄道阿字ヶ浦延伸紀念と刻まれている。

 管理人が撮影した時にはコンクリート製の社名碑は風雨に打たれて文字が読み難くなっていた上に
 晴天で日陰の陰影を映し出すのがとても難しいシチュエーションで有った為に
 画像を白黒にして高コントラストに調整してなんとか判読できる状態にしてあります。

 再度の撮影の機会を伺っていたのですが残念ながら東日本大震災の折に
 堀出神社の社名碑は倒壊してしまい、再度の機会は永遠に失われてしまいました。


 やがて質素な藁葺き屋根の間に多層造りの海水浴旅館が見られるようになり
 波打ち際には今風の海の家が所狭しと立ち並んだ。
 


 阿字ヶ浦海岸のパノラマ
(上の画像をクリックすると大きなサイズでご覧になれます) 



 東洋のナポリ
 今はもう耳にする機会がなくなっているが阿字ヶ浦には「東洋のナポリ」というキャッチフレースがあった。
 私が学生時代に東京に住んでいた頃、新宿駅アルプス広場で、「東洋のナポリ・阿字ヶ浦」という幟を見かけ
 よくよく覗いてみたら阿字ヶ浦の観光キャンペーンであった。
 若いキャンペーンガールが居る訳でもなく、今流行のゆるキャラなんて当然居るはずも無く
 只只、地元のオバちゃん達が通行人を引っ掛けて茨城弁を捲くし立てていただけだった。
 私も運悪くそのオバちゃんと視線が合ってしまい、暫くの間懐かしい茨城弁を堪能することになった。


 1970年頃の阿字ヶ浦海岸
(上の画像をクリックすると大きなサイズでご覧になれます) 

 海岸に聳える崖を「屏風岩」といい、阿字ヶ浦と磯崎の海岸の境にある岩礁地帯を「鬼隠れ岩」と言った。
 何故、酒列磯前神社の近辺にある岩礁に「鬼」という文字を使うのか管理人は考えました。
 岡山県総社市の鬼城山(きのじょうざん )には温羅と呼ばれる鬼が住んでいたという伝承が残っているが
 ここでの鬼とは大和朝廷に敵対していた者達なのではないのかと推測できます。
 ならば、阿字ヶ浦の「鬼隠し岩」のも大和朝廷に敵対していた勢力のことではないのか・・・
 神話には朝廷に従わなかった天津甕星(あまつみかぼし)こと星神香香背男(ほしのかがせお)が
 日立の大甕に居たと伝えているのですから強ち絵空事では無いと思われます。
 このあたりの件は後々「ヤンサマチ」のカテゴリーで説明します。

 また、管理人が子供の聞いた話では
 阿字ヶ浦の海岸に沿って、北から南へ強い流れがあり
 鬼隠れ岩付近で離岸流となって沖へと流されるという。
 この離岸流は相当に強力な流れであったので幾人もの犠牲者が出たといわれています。
 この強い離岸流を鬼に例えて「鬼隠れ岩」と呼び、人々に危険箇所だと知らせていたのかもしれません。

 しかし、残念ながら肝心の「鬼隠れ岩」は磯崎漁港の拡張整備工事の為にその姿を永遠に隠してしまいました。


 阿字ヶ浦の最盛期と衰退
 1980年頃に阿字ヶ浦への海水浴客は最盛期を向かえ年間350万人もの利用者が居ましたが
 レジャーの多様化や常陸那珂港の工事により海流が変化して砂浜は波の浸食を受け
 年間を通して見られていたサーファーも激減して2005年には年間70万人へと減ってしまいました。

 その最盛期のさなかの1982年頃に管理人が撮影したのが下記の2枚の写真です。




 阿字ヶ浦駅後方の風景ですが、まるで湊鉄道延伸直後かと思えてしまう。
 松の下を潜り右手の奥に進めば海岸へ降りる坂道になっています。

 驚くことにこの時でもこの坂道は未舗装で
 周囲は木々が鬱蒼として昼尚暗い道でした。

 坂を下り終われば右手に清水を湛えた池があり
 正面には赤青黄色の原色に塗られた
 バンガローが立ち並んでいました。
 そこから海までは田んぼが広がり
 海まではまだ遠くにある感じでしたが、
 後年田んぼは埋め立てられて駐車場となり
 昔の面影は次第に姿を消してゆきました。


 阿字ヶ浦が最盛期を迎える前には
 崖下から湧き出る豊富な地下水を利用して
 鯉や岩魚などの養殖が行われていました。

 時折、大雨が降って養殖池が溢れると
 鯉や岩魚が田んぼの用水路に逃げ出して
 回収する大人たちに怒鳴られながら
 地元の子供達が我先に魚を捕まえていました。


 やがて養殖池は鯉の釣堀となり
 バンガローに隣接していたので、
 釣堀は宿泊客よく利用されていました。

 管理人も子供の頃に友達に誘われて
 この釣堀に行った事がありますが、
 料金が150円ほどだったと思いますが
 子供にはとても高額だったので、
 2.3度しか行けませんでしたが、
 釣果もあまり良かった記憶がありません。


 



 上の写真はひたちなか市のホームページから頂いたものです。
 駅から続く暗闇坂を下りると写真右手の道路に続いていました。
 マッチ箱のような建物がバンガローで、この頃には田んぼは埋め立てられて駐車場になっています。
 釣堀はバンガローの左手に造られていました。


 阿字ヶ浦の観光地への説明はここまでとして
 次のページより磯崎と阿字ヶ浦に有った旅館のお話です。
 

     
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