平磯や前浜(現・阿字ヶ浦)と言う地名を右翼なら一度は耳にしたことがあるそうだ。
 それは、昭和維新が唱えられた昭和初期に我が身を省みずに捨石になろうと決意した
 血盟団の青年たちを輩出した土地の名だからだ。

 しかも血盟団事件は関わった者達が5.15事件を引き起こす歴史的重大な事件であり、
 綿密に取材や探求をしている研究者が多数居られるので、私の俄仕込みの知識では到底心許ないので
 血盟団事件の内容は下記を参照のこと
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 推奨する書籍は
 血盟団事件 (著)中島 岳志
 

 
当時の写真ニュースの実物
 上記の顔写真の一覧の中で
 2)菱沼五郎、12)黒沢大二、は前浜(現・阿字ヶ浦)出身で、14)小沼正は平磯の出身である。
 更には前浜出身では被告人にはならなかった照沼操、堀川秀雄、黒澤金吉、川崎長光らが居り
 3)の古内栄司は前浜小学校の教員であった。
 
 古内栄司を除く彼らには血縁関係があり、そこから「血盟団」と呼ばれることになった。
  
 当時の前浜には前渡村村議会員の黒沢忠次が前渡青年政治研究会という会をつくって、
 政治学者の五来欣造や松岡洋右、新渡戸稲造を呼んで講演会を開いている。
 詰まりは前浜には平民が政治を語る土壌があり水戸の三ぽいで謂われる「理屈っぽい」性格から
 白熱した議論が交わされていた事は想像できる。
 
 事件を起こす以前は黒沢大二らは天狗会と名乗り地域で慰問会を開くなどしていたことから
 天狗党を称える思想があったことが伺え平民によるクーデターともいえる血盟団事件へ発展して言った。

 余り語られる事は無いが古内栄司が語る大洗護国堂の井上日招の思想に感化されていたのは
 血盟団に参加したメンバーだけではなかった。
 年端も行かない者たちも、血盟団のメンバーと行動を共にしていた。
 私の父が語ったことがあった「あと10歳違っていたなら血盟団に参加していた」と・・・・
 
 血盟団事件の発生時には号外も発行されて事件の重大さが伺える。 
 

 重大事件ではあったが死刑判決を受けた者はなく、平磯や前浜出身の血盟団員は服役後は市井に身を潜めた
 私が聞き及んだ血盟団員の其の後を語ることにします
 
 
 1970年代には到るところに「北方領土返還」の看板が立てられポスターもよく目にした。
 街には「北方領土返還」を掲げた右翼の街宣車が大音量でスピーカーから童謡や軍歌を流して走り
 テレビでも「呼び戻そう北方領土」というキャンペーンコマーシャルが流れていた時代である。

 そんな時、那珂湊駅近くの八幡下にあった那珂湊農業協同組合本店へ国防色に塗装された大型バスが横付けして
 中からマントを羽織り高下駄を履いたバンカラ風な出で立ちの右翼の構成員が降りてきた。
 彼らは高圧的な態度で農協に対して右翼団体への賛助金を求めてきたが、
 対応した女性は何ら臆することもなく彼らを組合長室へと案内した。

 面会した当時の組合長は熱り立つ右翼の構成員に対して無言で自分の名刺を差し出した。
 すると名刺に目を通した構成員は慌てて高下駄を脱ぎ捨て床に平伏して己の無礼の許しを請うて去っていったという。
 それはまるで、水戸黄門の印籠に平伏す悪代官のようだったと彼らを案内した女性が私に語ってくれた。
 


黒沢大二

 彼らに差し出された名刺には「血盟団 黒沢大二」とだけあった。
 黒沢大二は血盟団に参加して服役後は地元の農協へ就職していたのだ。

 血盟団は農民の貧困を憂いて決起したわけだから農民のための農協へ
 従事していても不思議ではないが
 やはりそこは血盟団に参加した前科者ながら地元の有力者の血筋が
 成せる業だったのかも知れない。

 黒沢大二は存命中に服役中の話をしたことがあり
 自分の刑期を知らずに悶々として服役していたが
 皇太子(今上天皇)誕生による恩赦で釈放された。

 のちの「政財界の黒幕・フィクサー」などと呼ばれた
 児玉誉士夫に刑務所内でであったが
 要領がよくお調子者でとても好きにはなれなかったそうだ。


 
 1970年代に頻繁にテレビに流れていたコマーシャルで
 音楽家の山本直純が纏を振るい、外国人力士第一号の高見山大五郎が大太鼓を打ち鳴らしながら
 子供たちと「一日一善」と唱える日本船舶振興会のコマーシャルを覚えていらっしゃる方も多いと思います。
 https://www.youtube.com/watch?v=LpxGmpI_3cc

 日本船舶振興会のコマーシャルには上記のほかに収益金の使い道を説明するバージョンがありました。
 https://www.youtube.com/watch?v=TqQilFOl2lk
 
 1978年頃に私がラジオを聴いていたときに収益金の使い道を説明するバージョンのコマーシャルが流れてきた。
 女性の声で「平磯保育園の皆さ〜ん」と声を掛けると
 茨城訛りの子供たちの声で「は〜い」と答えるだけだったが
 つづく男性の声で「平磯保育園の園舎改築に日本船舶振興会が協力しています。」という内容だった。
 日本船舶振興会と言えば当時の理事長は謂わずと知れた右翼のドン、笹川良一氏。
 すかさず私は「右翼繋がりか!!と呟きました。
 平磯保育園の園長の川崎長光氏が、血盟団のメンバーだった事は地元の者には知られており
 10代後半であった私でも知っていた。

 私が子供だった頃の平磯保育園は地域と大変密着していて園長が血盟団関係者でも気にする者も無く
 運動会の時などはお祭りのような賑わいを見せ、父兄ではない者も大勢詰め掛けた。
 敷地内にある芝生の土手には父兄が陣取り、溢れた観客は道を隔てた津神社の高台から眺めていた。

 管理人の一言
 私の勝手な考察であるが平磯保育園の建つ場所は新道を隔てて津神社に隣接している。
 津神社は幕末の天狗党の乱で平磯に立て篭もった場所である。
 新道は其の名の通り比較的最近造られた道路で江戸時代には平磯保育園の土地は
 津神社の鎮守の杜其の物だっただろう。
 右翼思想により川崎長光氏は天狗党所縁の場所に敢えて保育園を設立したのだと思われる。
  

 川崎長光氏は昭和16年に平磯保育園を創設して戦中戦後と同園の運営に努め
 その功績により昭和57年に勲五等雙光旭日章を授与され
 血盟団のメンバーの中で最も長命で2011年に101歳で亡っている。

 ちなみに先の写真ニュースの血盟団員の顔写真の一覧には川崎長光氏は含まれていない。
 川崎長光氏は後の5.15事件の際の西田税暗殺未遂事件により逮捕されることになる。
 

 
 私が小学校3年の頃、同級生だった原屋旅館の息子が学校に
 人気ドラマ「キイ・ハンター」に出演していた千葉真一のブロマイドを持ってきて自慢をしていた。
 話を聞くと映画撮影のために原屋旅館に逗留していた本人から貰ったものだと言う。
 其の映画のタイトルを聞いたところ「日本残酷物語」と返答したので、
 仁侠映画か猟奇映画だと思い、其の時は気に留めることは無かった。
 成人した後にその事を思い出して「日本残酷物語」を検索してみたが該当する映画は無く
 私の思い違いかとそのままにしていたが、最近になって「日本暗殺秘録」という映画の存在を知り
 これだったのかと納得した。

 
 
 日本暗殺秘録は日本史上の暗殺事件をオムニバス形式で綴った特異な映画で
 其の中でも血盟団事件をメインに据えており、
 千葉真一は血盟団メンバーの小沼正を演じていた。

 小沼正は平磯町出身で、当ホームページへ「小沼正」と検索してたどり着いた
 閲覧者が居るほどで「日本暗殺秘録」は血盟団の本拠地であった大洗でも
 撮影が行われておりその際に「小沼正」の故郷である平磯に撮影スタッフが
 逗留したものと思われる。

 しかし血盟団事件当時、平磯町とされていた小沼正の出身地だが
 2度の市町村合併を経て、平磯町から離れて現在では
 ひたちなか市磯崎町に該当する。

 「小沼正」は「おぬま・しょう」と読む。
 磯崎に住む古老は血盟団を語る際には「しょうさんが・・・」と始める。
 
 戦後、小沼正は出版社業界公論社社長を務める傍ら
 右翼活動を続け、『一殺多生』を著わす。
 この書籍は以前は那珂湊図書館に数冊が所蔵されていた。
 其の当時は管理人も血盟団に差ほどの興味を持たず、
 何れ時間をみて読んで見様と放置していたが
 いざこの本を図書館で探してみても見つからない。
 ひたちなか市の図書館の蔵書をインターネットで検索して
 驚いた。中央図書館に1冊だけ所蔵されていて
 更には帯禁に指定されていた貸し出しが出来ない。

 古い本なので只単に整理されたのかもしれないが
 勘繰れば右翼思想の書籍が一目に付かないように
 隅に追いやられたかも知れない。

 左翼や右翼をどうのこうの語るつもりはないが
 郷土史の一部であり覆い隠してはいけないと思う。


小沼正


 ちなみに小沼正以外のメンバーの出身地である前浜は事件当時は「前渡村」の字地であった。
 江戸時代までは独立した村落であったが明治期に周辺合併をして「前渡村」に編入されていたが、
 海岸部に位置した前浜と内陸部の他の村落とでは生活習慣の違いも有り反目しており
 昭和29年の勝田市と那珂湊市が同時に成立の際に前浜のみ那珂湊鉄道の敷設により生活範囲の重なる
 平磯町や柳沢とともに那珂湊市に編入される事を希望して離反し地名も阿字ヶ浦町に変更した。
 

 関係者の其の後(ウィキペディア参考)
 
井上日召 戦後「護国団」を結成して右翼活動を続けた。
昭和42年3月4日死亡。
  
小沼正 戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、『一殺多生』を著わす。
他の血盟団メンバーとは袂を分けたように行動を共にした記録がない。
昭和53年1月17日死亡。
 
菱沼五郎 帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、小幡五朗と改名し昭和33年茨城県議会員に当選し、
その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。
東海村原子力施設誘致に絡み巨額の使途不明金問題を起こした。
平成2年10月3日死亡。
 
四元義隆 井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた
昭和23年の農場経営を経て、昭和30年より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任。
この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では
「陰の指南役」と噂された。
平成16年老衰のため死亡する。享年96。
 





 
終劇






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