井上日召 |
戦後「護国団」を結成して右翼活動を続けた。
昭和42年3月4日死亡。
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小沼正 |
戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、『一殺多生』を著わす。
他の血盟団メンバーとは袂を分けたように行動を共にした記録がない。
昭和53年1月17日死亡。
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菱沼五郎 |
帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、小幡五朗と改名し昭和33年茨城県議会員に当選し、
その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。
東海村原子力施設誘致に絡み巨額の使途不明金問題を起こした。
平成2年10月3日死亡。
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四元義隆 |
井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた
昭和23年の農場経営を経て、昭和30年より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任。
この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では
「陰の指南役」と噂された。
平成16年老衰のため死亡する。享年96。
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