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上の絵地図は大正3年に発行された物です。(画像をクリックすると絵地図が拡大されます) 平磯海岸に茨城県から県内最初に認可を受けた海水浴場が開かれてからおよそ15年が経過して 清水町を中心に沢山の 「海水浴旅館」が立ち並んでいることが判ります。 殿山(平磯口)や磯崎(酒列磯前神社下)の旅館を含めれば、文献上に平磯には旅館が29軒存在していました。 やがて、この数多くの旅館も平磯の観光地としての衰退により消滅していき、 1970年代で私の記憶に残っている旅館は「平磯館」、「菊本屋」、「仲元屋」、「稲荷屋」、「平野屋」、「万年屋」、 そして比較的新しく出来た「原屋」が営業していただけでした。 それら平磯に存在した旅館のうちで管理人が入手できた画像を幾つか紹介いたします。。 |
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平磯館は先の大正3年の絵地図にもT字型に描かれ、現在も営業を続けている平磯の名を冠した老舗旅館です。 上の平磯館の絵図も大正期の物のようで、絵地図とは同時期の物と思われます。 平磯の崖の中腹に建てられた別館とは渡り廊下で繫がっており 渡り廊下の中ほどに幾つもの土管を繫ぎ合せた大きな煙突を備えた建物が建っていて この中は風呂になっており、私が子供の頃に見た記憶ではタイル絵の素晴らしいお風呂でした。 |
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やはり大正時代の絵葉書に写る海上から見た平磯館別館、 地元の者はこの別館を「平磯館の三階」と呼んでいました。 崖の中腹に建てられていて、すぐ背後には崖を背負い清水町の高台の端から屋根に飛び移ることが出来た。 私の子供の頃の悪がき連中は平磯館の三階の屋根の上から地面に飛び降りることを何故か繰返していた。 怪我人が出なかったことが不思議でならない高さだった。 また、あたり一面は松ぼっくりが地面を覆うように落ちていて、それを拾っては他愛の無い遊びに興じていた。 |
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殿山より眺めた平磯の入口風景である。 平磯館別館(平磯館の三階)は高台から平磯の街を見下ろす位置に建っており 廻りの貧しい建物と比べてもて平磯館はとても格式も高い旅館だったことが想像できるが 私は「平磯館」と言う名称から、この建物は元来水戸藩の郷校の「平磯館」で有ったのではないかと推測している。 幕末の天狗党に参加した郷校にも「平磯館」の名称が見られ 別館(平磯館の三階)そのものが郷校の建物で、後から建てた平地の本館と渡廊下を新設して 旅館として再利用されたものではないかと思っている。
TBS元社長の磯崎洋三氏は平磯館の出身である。 事件の発端となった坂本堤弁護士一家拉致殺害事件の被害者、夫人の都子さんは勝田の出身であり こんな田舎の町(ひたちなか市)出身の方々があんな大事件に関係したいたことに驚くばかりである。 「警察官旅会」、「第14師団指定旅館」の看板が誇らしげだ。 平磯館旧館全景 |
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仲元屋は営業形態を変えながらも最近まで現存していた数少ない平磯の旅館です。 70年代に入ると古い建物の一部を改装して喫茶店「サーフ仲元」を経営します。 やがて建物を全て一新してレストランがメインの「ザ・サーフ」と改称しますが、宿泊施設は併設しておりました。 そして90年代に入るとレストランからカラオケルームへと転進をし、 現在ではコンビニエンスストアーとなっています。 私が子供の頃の仲元屋は建物は古いままに敷地の周辺ををコンクリートで城壁のように補強してありました。 敷地の南側には道路に隣接して一間幅くらいのコンクリート製の階段があって海岸へと降りることが出来ました。 |
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上の画像は大正期に清水町の高台より撮影されたものです。 海岸沿いに並ぶ大型の二階屋の建物が清水町の海水浴旅館です。 清水町に多数の旅館が立ち並んでいた理由を推測しますと、 江戸時代の清水町はその名の通り崖下の湧水や沢メキの水に恵まれていたので、 その殆どが水田として利用されていたといいます。 明治期に入り、海水浴場として平磯が有名になると宿泊施設の少なさが指摘されるようになり 水田であった為に開発しやすく海にも面していた清水町に旅館が建設されたのだと思われます。 |
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