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2007年3月、この建物は火災により焼失した。 当日、火災が起きた際に現場を尋ねる声に「元のパチンコ屋だ」と言う声が飛び交った。 この建物は40年位前までは平磯会館と言うパチンコ屋であった。 手打ちのパチンコ台で椅子の無い立ち打ちで、3列くらい島の並んだこじんまりとした造りだった。 |
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見事に建物は焼き尽くされて現在は更地となっている。 実はこの建物は、平磯の歓楽街の最後の1棟でも有ったのだ。 下の地図は大正4年のものであるが、南町から川向町へ続く現在の仲通りがまだ無かった。 この道路は、平磯・磯崎海岸観光道路の第二期工事として大正15年に計画され昭和初期に完成している。 それまで、川向町は細い路地が入り組み、下水も垂れ流しの状態でとても環境が悪い地域であったという。 |
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この頃は現在と主要な道路が全く違っていました。 南坂は分岐しておらず、駅方面への道が出来るのは昭和5年のことで、 それ以前の南坂は登り切ってから平磯幼稚園ができて塞いでしまっているが湊・館山へ続く寺道と 踏み切り方向へ続く「へたの道(部田野)」と分かれていた。 そして生活道路も仲通より幸田商店から石垣屋米穀店の前を通り津神社に抜ける上の道がメイン通りであり、 ここが津神社の参道でもあった。この道沿いに店舗や屋敷を構えることの出来たのは 船主や網元など地元の名士が殆どで、所謂お大尽通りであった。 磯崎方向へは津神社の高台に沿って平磯中学校方向へ幅1mほどの道が昔からあり (戦後には豚小屋銀座と呼ばれた) やがて、平磯保育園脇を通り畑の中を磯崎方面に進む「新道」ができた。 |
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上の石碑は聴法寺墓地にある海老沢義重巡査殉職の記念碑です。 海老沢巡査は昭和5年8月5日、平磯町役場敷地内で湊の若者により殺害されました。 戦前の封建的制度のうえで警察官を殺害するというのはお上に逆らうことと同意語です。 この事件はスキャンダラスな出来事として受け止められたらしく、 この石碑の題額には時の鉄道大臣が書を寄せています。 その後の、平磯町では殺人事件は暫く記録にありませんでしたが、 1976・7年頃に川向町のケーキ屋さんの奥さんが殺害されて 刑事が私の家にも聴き取りに来たことがありました。 犯人が検挙されたかは覚えて居ませんが、のどかな平磯町にこの様な事件は似つかわしくはありません。 何時までも、のどかな平磯町であってほしいと願っています。 このような繁華街の片隅に位置して、パチンコ店、BAR、スナックと平磯の水商売を 一手に引き受けていたような建物が焼失し、この通りの繁華街のなごりは全く消え去ってしまったのです。 尚、平磯にはもう一軒パチンコ店が有った時期が有り、それは柴田商店(しょっぱや)の向いだったそうです。 其処には橋本歯科医院もあったということですが後に上菅谷駅近くに移転してしまいました。 |
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